2012/05/09

Day 20 - 24: Costa Rica -> Atlanta -> Nagoya -> (Finally) Tokyo

Adios, Costa Rica.

アトランタの空港にあったモーテルに直通する電話装置(?)
すごく20世紀っぽい。

成田に着陸できず、名古屋に向かった。

名古屋のセントレアでは
お菓子と飲み物の差し入れがあった。

東北、東京は凄まじいことになってるって
のは分かってたけど、名古屋にいるので観光した。

名古屋のコメダコーヒーの朝食。
ボリューム凄かった。

予定より2日遅れて東京に戻った。

家に戻ると留守番を頼んでいた友人から
こんなメッセージがあった。

アトランタで1泊して、3月11日(金)15:55に成田に着陸する予定だった。
着陸予定時間の1時間程前、東京で強い地震があったので成田に着陸できないという
機内アナウンスが流れた。代わりに着陸する空港が確定するまで旋回飛行を続けるらしい。

このとき地上でどんな惨事が起こっているかなんて知る由もなかった。
パイロットが「韓国に向かうかもしれない」というアナウンスをした時
「焼き肉食べて帰れる!」と喜んでしまったくらいだ。いま思えば不謹慎だけど。

結局、飛行機は名古屋の中部国際空港(セントレア)に着陸した。
着陸してからも1時間くらいは機内待機、その後、空港内の建物に移動して
空港職員から各種説明を受けた。

機内待機中にTwitterのTLをとにかくひたすら読んだ。
「地震」とか「津波」とか「帰宅できない」とか、東北と首都圏は大変なことに
なっているみたいだ。わざわざ会社休んで成田に迎えに来てくれているはずの友人は?
築40年の木造の家は?いろいろ心配になったけど、メールも電話もダウンしていたので、
Twitter上からでしか状況を把握できなかった。

セントレア内の建物に集められた乗客のほとんどは、日本国内に居住する人達みたいだったけど、
成田を経由して他の国に行く予定だった人も少なからずいた。
行き先によっては名古屋からは出てないルートを使わなければいけないため、
何日もロスしてしまうと嘆いていた。

そんな中、60歳位のスーツ姿の男性が空港職員に怒鳴り散らしていたのを覚えている。
自分はビジネスクラスに乗っていた。航空会社は名古屋でのホテルを見つけてくれるのか?
新幹線はいつ動くのか?東京に戻る新幹線代は航空会社が出してくれるのか?
移動に在来線を使った場合の領収書はどう発行するのか?
要するに、質問と要求を声高に騒ぎ立てているオヤジだった。

私は隣に座っていたアメリカ人のおばちゃんの通訳をしていた。
いとーさんはiPhoneからその日に泊まれるホテルを予約していた。
私達は、とりあえずできることを淡々としていたと思う。ってか、そうするしかなかった。

新幹線も動いてなかったし余震が怖いので、名古屋には2泊することにした。
その間、ホテルにいても仕方がないので普通に市内を観光した。

たった3週間の海外滞在でそうなるのはちょっと大げさだし、ださいとは思うが、
何を見ても批判的な見方しかできなかった。

金曜日なのは分かるけど、吐くまで酔うって何なの?
名古屋城で行われていた戦国武将ショーも「自粛」ということで短縮してたけど、
通常通りにショーを開いて寄付でも募った方がいいんじゃないの?
なによりも、空港でみた怒鳴っていたオヤジ、自分だけが被害者だって態度ださすぎるんだよ。
何でも与えられて当然って思うなよ。自分でできること何かあるだろ?
誰がこの状況で新幹線の再開状況を正確に答えられるわけ?相手の立場になれば想像つくだろ。
あんな奴、撲滅しないと日本終わるわ、くらいのことを言っていたと記憶している。
いまでも結構本気でそう思ってるけど。

13日の日曜日には新幹線も動き、2日遅れで東京に戻って来た。
家に戻ると友人とSkypeで連絡がとれたり、留守番を頼んでいた人がメッセージを
残してくれていて、やっと東京に帰って来た実感がわいた。

東京に帰って来たのが日曜日だったので、翌日には仕事だった。
そんな感じで、あっという間に日常に戻った。
状況は、出発前とはずいぶん違うものになっちゃったけど。


2012/05/06

Day16-19: Costa Rica


































サンサルバドルを経由してサンホセに向かった。
いとーさんとは空港のロビーで落ち合うことになっていた。

なにを今更という感じだが、
3時間程の飛行時間に、なぜ今回凧あげをするためだけにアメリカ縦断旅行を
することになったのか、ぐるぐると考えていた。

Dell Japanのキャンペーンに当選したから
←いとーさんがキャンペーンを見つけてきたから 
←いとーさんと私の共通の友人の誕生日に凧をあげて、その時に凧あげしながら
旅行することを思いついたから← プレゼントの相談をした時、凧がアツいってことに
なったから←一緒の家に住んでいるので相談する機会があったから
←同じ大学の寮で知り合って仲良くなったから ...

と、さかのぼりだすとキリがない。
どれ1つ欠けてても、このどうしようもない旅行は成立しなかった。

そんな感じで勝手に感動して盛り上がっていたのだが、
空港の換算レートがぶっ飛んで高かったことと、
再会した瞬間「"イエローフィーバー(黄熱病)"って言葉、嫌になるくらい聞いた!」
(黄熱病の予防接種の証明書を持っていなかった為、
ボリビアからの飛行機に搭乗できない可能性があったの意)と
騒いでるいとーさんを見て、一気にさめた。

コスタリカではとにかく時間がないので、
幻の鳥と言われるケツァールを見ることと、凧あげをすることに絞って行動した。

滞在中はサバナ喜多側という日本人宿でお世話になった。
毎晩、宿泊者が集まってオーナーの荻野さんの手料理をごちそうになった。
私達以外には、カリフォルニアから来た和食店の職人、韓国から来たミュージシャン、
法律を勉強するコスタリカ人の学生がいた。
観光はほとんどしなかったけど、背景がバラバラな人たちと集団生活できたのが
楽しかった。

3週間前に日本を出たときは真冬だったはずなのに、
もう3月半ばになっていた。
いとーさんはどう思っていたのか聞いてないけど、
私は早く東京に戻りたかった。
やりたいことが溜まっていたからだ。

これからアトランタで1泊して東京に戻る、予定だった。

Day12-15: Guatemala City & Antigua





グアテマラシティ−アンティグアを移動する際に使った「チキンバス」。
50円くらいで乗れるけど、運転が荒すぎてこの旅ではじめて死ぬかと思った。


グアテマラでは死者の日(日本のお盆みたいな日)に凧をあげるという。
あの世とこの世を結ぶものっていう考えがあるらしい。

この旅でやっと「はじめて訪れる国」に入国した。
グアテマラについては「コーヒー豆の名前みたいな国」ぐらいの認識だった。
ごめん、いい加減で。


宿に着いてスーツケースを開けると、ビデオカメラが無いことに気付く。
デジカメの充電器とケースも無いし、PCのスクリーンも割れてしまって使えない。
メキシコを出る時には確かにあったので、
空港職員にスーツケースをこじ開けられたとしか考えられない。
っていうか、手荷物として保管しなかった自分が一番悪い。

翌日、航空会社のオフィスに行き、被害証明を発行してもらった。


いざPCが使えなくなると、いかにネットに頼りきってたか分かった。
ローカルバスの路線を調べるのも、宿の予約もずっとネットを使ってたし、
宿のおじさんもスペイン語しか話せないから急に不安になった。
だけど、開き直るしかなかった。

「中南米」と一括りにしていたが、グアテマラの人達の雰囲気はメキシコとは
全然ちがうように見えた。
なによりも穏やかだし、人の話を聞こうとする。
こっちが「ガイジン」っていうのもあるけど。
グアテマラの食べ物には、ほとんどチリが入ってないってのも関係してるんじゃないか?
って思ってしまうくらい、似てそうで全然ちがう。

実はこの3日間、凧あげは1度もできなかった。
また、この頃、結構涙もろくなっていた記憶がある。


1人でいるのは好きだってずっと思い込んでたけど、
やっぱり自分、寂しいんじゃないかって思った。
気付くの、遅いけど!


そんな、自分の弱さを知ったような3日間。
翌日はいとーさんと再会する。

2011/06/18

Day11-13: Uyuni Tour

高山病になりました。


ウユニ塩湖まではなんともなかったんだけど、
その後標高5,000M近いボリビアの国立公園いって、

そこでもなんともなかったんだけど、

そこで温泉入って、、、アウト。

お酒飲むのもそうだけど、血行よくなると高山病になりやすいんですって。

わかってたんだけどね、、、

欧米人たちがはしゃいでるから混ざりたくなってさ、、、
しばらく湯船につかってなかったしさ、、、

高山病の症状は人によっていろいろあると思うんだけど、私の場合は食欲が一切なくなりました。
ずっと満腹状態で、2日くらい何もたべなかった。
あと頭が重くなるような頭痛がずっと続いてた。

高山病ながらもせっかく国立公園なので景色は満喫してきました。
あと、凧あげの任務も(いちおう)果たそうと思って、風がでてきたときに凧とりだしたら、
まわりのおじさんたちが「走れ」とか「もっと走れ」とか「走れ走れ」とか、スパルタ的に
指導してきてくださって死ぬかと思った。

あの、私、高山病なんです!

ってスペイン語調べとけばよかった、、、



 よくがんばりました。

で、ですね。まだ続きがありましてね。

よくがんばったけど、やっぱり山だからうまくあがらなかったんです。
そしたらドン・カルロス(ツアー一緒だったボリビア人のおじさん)が、

「ジープを使え!」

と、、、、

カルロスが凧をもつ。私がジープの荷台にのって糸をもつ。ドライバーさんがジープを走らせる。
そうすればジープが走ってる間、凧は勝手にあがるではないか。

ってことらしい。

無茶。もう、無茶どころか危険。師匠に激怒されるレベル。
「無理!こわい!」っていったけど「大丈夫大丈夫」となだめられるばかり。
だけど鉱山病だったから(言い訳)その危険性を説明する気力もなかったし
やらずには場がおさまらない感じだったので、

やりました。


師匠たちごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

もう二度としません。

2011/04/18

Day11: Teotihuacan

メキシコシティから50kmほど離れた場所にあるテオティワカンという都市遺跡に行った。
行きのバスは、ギタリスト2人つき。


とにかく広大で、ただただ圧巻。
ピラミッドもいくつかあったけど、全部登ってやったぜ。






ピラミッドに階段がついているのは、当時、宗教的な儀式が行われていたからだと思う。
見晴らしがよい。「神(の視点)に近づけた」って勘違いできちゃうくらい。
ま、実際のところは、急な階段を数百段、1.5リットルの水抱えながら、ぜぇぜぇ登っただけなんだけどね。(その達成感も手伝って、勘違いも引き起こしたのではないかと思う。)

日差しの強さが容赦なく、太陽が近く感じて怖かった。
そういう自然への畏れみたいな感覚は、紀元前1-2世紀の人たちとも共通だったと思う...ってばっちり「こじつけ」だけど!ははは!
 
それではまた!

2011/04/17

Day11-13: Uyuni Tour - Photos-

突然ですが、ウユニ塩湖写真コーナーです!

到着直後、大興奮。

ジープ乗って、塩湖の中へ



 もう、美しいとしか言えないです。



 ジャーーーーンプ!!!
 動画もお楽しみください。




行きたくなったでしょー?

2011/04/09

Day10: Clown, Hector and Me

さて凧あげ。目星をつけていた2つの公園に向かってみる。
ひとつはBosque de Chapultepec。敷地内に美術館や劇場もある広大な公園だが、木が多過ぎて凧あげには不向きと判断。

ピエロが大道芸をやっていたので背伸びして覗き込んでいたら、"Japonesa?(日本人?)Come on!"と前に呼ばれた。巻き込まれてみることにしたら、案の定、踊らされた。


自分が踊っている間の映像は撮れなかったけど、上のような踊りをオアハカ出身の男性と踊った。他にもピンクパンサーのテーマに合わせて忍び足でどこかに侵入するフリとか、タイタニックの有名な船の先頭でのシーンとか...。はりきってたら賞品までもらった。

賞品。ピエロが作ったバルーンアート!
 その後場所を移動して、前日に友人たちと散歩したUniversidadあたりの公園に行ってみたら、凧あげをしているちびっこたちがたくさんいた。


私も凧を広げて準備してると、上の写真左側にいる男の子が、"bueno" とか ”aire" とか言って、私を別の場所に連れて行こうとする。とりあえずいい風があるらしい。
のこのこ彼について行ってみたら、この子むちゃくちゃ凧あげ上手。


Hectorという名前と11歳という情報しかわからないまま、とりあえず4時間、いっしょに凧あげし続けた。(その間ほとんど休憩なし)
私だけではなく、公園にいた他の凧あげしているちびっこ達にもちょっかい?いえ、指導し回ってたし...何者だったんだろう、奴は?


しかしやっぱりやらかしてしまって、高い木2本にわたって、凧をひっかけてしまった。

 
凧、救出作業中
するとHectorが大人たちを大勢集めてきてくれた。肩車したりしてみんなでなんとか凧を救い出した。こういう状況で感謝を伝える言葉が乏しいことが悔しかった。

凧を救出後もさらに凧あげは続いた。
4時間くらい一緒に同じことをやってると、私はほとんど英語、Hectorはスペイン語しか話さないのに、なんとなく話が通じているように思えたのがおかしかった。


その後Hectorに、帰らなきゃいけない旨を伝えたら、いままで何事もなかったようにあっさりと"Esta bien, chao!"と言って走り去ってしまい、友達から奪いとった自転車で、公園をぐるぐる旋回していた。さっきまでの蜜月(死語)は何だったの?急に冷たくしないで!

そんな日曜日。ものすごく日焼けした!